ぼーんぐん。ものがたり

日常の暮らしの中で感じる心持ちをつぶやきます。

茶碗蒸し

こんにちは。ぼーんぐんです。

 


日本は便利ですね。最近は感心しきりなんです。

 


ボタンを押して暫く待っているとゆったり乗れる車が到着します。そして行きたい場所を伝えると最短のコースを選択して連れていってくれるんです。

 


凄いですよね。

 


しかも親切に車の中から人まで降りてきて私に挨拶してくれます。私は恐縮しながら行きたい場所を伝えるんです。

 


すると今度はさらに驚きました。

 


伝えた場所の空き状況まであらかじめ確認してくれて、万が一席が埋まっていたら別のプランまで提案してくれるんです。

 


それを嫌な顔一つせずキビキビ動作する姿に清々しさすら感じます。

 


どこの「タクシー配車アプリ」の話なのかって?
いえいえスマホで利用するアプリの事ではありません。

 


救急車です。

 


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深夜二時。

 


街は活動を停止して誰も歩いていません。真っ暗闇の中を目的の病院まで一直線で送り届けてくれる隊員達がとても頼もしく思えます。

 


私はベッド横の補助いすに腰を下ろし外の様子を伺おうとしますが、残念ながら車内から社外をのんびり眺める窓はひとつもありません。

 


ただ隊員達の背中越しに僅かに見えるフロントガラスの一部から走行場所を推定する程度です。

 


耳にする音は不思議なものです。

 


あれだけ激しく鳴り続ける救急車両のサイレンの音は、社内ではあまり気にならないんですね。そのような構造なのでしょう。

 


それよりも道路の状態で走行車が前後左右に揺れる度に軋むベッドの音や、搬送者の腕に巻きつけられた血圧計や指先に取り付けられた血中酸素濃度測定器類から出る電子音が徐々に大きく聞こえてきます。

 


ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、
グイーーーン。シューー

 


そして目の前にある測定結果を映し出す小さなモニターが一定のリズムをもって書き換わります。

 


搬送者は私の大切な肉親。

 


ここ数日で二度目の乗車になります。

 


***

 


私は子供の頃、神社仏閣へ詣でると必ず「自分の夢が叶うように」と祈っていました。

 


それが配偶者と巡り合い子供を授かると、妻のため、生まれてくる子供のために手を合わせて祈りを捧げます。

 


ハレの日には子の成長を、受験では努力が実るように、病気にならぬように、楽しい学生生活を過ごせるようにとキリがありません。

 


また、次第に年老いる両親にも同様に尽きる事のない祈りを捧げます。

 


いつの間にか気が付くと自分の願いごとは「家族の無事」「家族の願い」になっていました。

 


みなさんもそうでしょうか。

 


子供が中学生になった頃、私にこんな質問をしてきました。きっと授業で自分の将来について学んだのでしょう。

 


「生きる目的ってなあに」

 


みなさんは子供にちゃんと説明できますか。

 


不意を突かれた私は「自己実現だな。なりたい自分を見つけてそれを達成することだよ」と答えました。

 


さらにそのあと少し考えてから「子孫を残すこと」「自分を大切に育ててくれた人(親)を見送ること」も大事な目的だと思うんだとつづけました。

 


今や令和です。

 


個性を大切にし、多様な価値観を尊重する時代になりましたから一方的に昭和的な古い考え方を押し付けるのは良くないのかもしれません。

 


「生きる目的そのもの自体を探すこと」が一つの解なのかもしれませんね。

 


***

 


救急医療機関にて検査と診察を終えひとまず帰宅しました。点滴を投与されるも相変わらず様子のすぐれない状態のままで経過観察です。

 


どうしたら元気になるだろう。

 


何とか水分だけでも口から採ってほしい。あれこれ考えた末に「茶わん蒸し」ならどうかと思いつきました。

 


「あたたかくて美味しい」

 


そう言ってひと口ふた口と匙から食べてくれる姿を見て、私は嬉しくて脱力します。

 


食べる事って素敵ですね。

 


それは「食べている人」も「それを見ている人」も、そこに居るみんなを幸せにしてくれるからです。

 


今日は「茶わん蒸し」に救われました。

 


ありがとう。祈りは無駄ではありません。