ぼーんぐん。ものがたり

日常の暮らしの中で感じる心持ちをつぶやきます。

引き換え不要です

こんにちは。ぼーんぐんです。

 


みなさんは神や仏の存在を信じていますか。

 


初詣からお盆のお墓参りまで、私たちの生活には手を合わせてお祈りする場所のなんと多いことか。

 


平穏な生活を営み順調である時には、近況を報告したり日頃の感謝の思いを伝える場所として利用をします。そして、困った時は神仏にすがり困難を克服しようとするんです。

 


受験合格、恋愛成就、夫婦円満、交通安全など代表的なお願い事は神社のお札やお守りにもなっていますよね。

 


これらは自分自身の願い事を叶えるために行うことが一般的です。

 


しかし何歳頃からでしょうか、自分を取り巻く相手のために祈るようになってきます。

 


両親のため、配偶者のため、子供のため、お世話になった人のため、世界平和のため。

 


懸命に祈りを捧げて相手の困難や願いが叶う様にと願うのです。

 


みなさんもそうではありませんか。

 

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そしてその願いが叶うためにはその対価を支払っても構わない気持ちになります。

 


自分が苦労をして手に入れたモノやお金や地位などを手放す代わりに、どうか相手の願いを叶えてほしい、救ってほしいと訴えます。

 


その対価は、その人にとって価値があるほど、願いを受け入れてくれる効果がある様に感じます。

 


時には苦痛を伴う困難な修行も厭いません。自分の命と引き換えにと考える方まで現れてきます。

 


自分を犠牲にしても相手を救いたい。

 


多かれ少なかれ対価を払ってまでも相手の願いを叶えたくなる考え方は、誰にでもあります。

 


その一方で疑問もあります。

 


私は漠然と何の根拠もなく神仏の存在を信じている一人ですが、その神仏が願い事を叶えるために、その対価としてその人の大切にしているものを奪うのだろうかと。

 


ましてや困難な修行や命まで対価として受け取るとは到底考えられません。

 


原因や関係性が明らかならば、それを改めれば済むこと。何の因果関係もないのに「大切なものを差し出すから願いを叶えてほしい」と訴えられても受け取る側も困ってしまいますよね。

 


だからこそ「人に強制され、恐怖を煽られ、考え方まで強いられる」一部の教えの先には、きっと本当の神仏はいないんだと思います。

 


弱みにつけこまれない様に、騙されない様に用心が必要なんですね。

 


とは言っても願いを叶えてくれた神仏に対して、受けたご恩をお返ししたい気持ちも理解できます。

 


では何をしてお返しするか。

 


私は「今自分が出来る事をする」ことだと思います。

 


人から受けた親切。嬉しかったこと。有り難かったこと。助かったことを今度は自分が人に行ってあげる。

 


その行いこそが神仏へのご恩のお返しだと考えるのです。

 


さあ、みなさんには悩み事はありますか。それは神仏を頼らないと叶わないことですか。

 


仮に願いが叶っても金銭による対価は必要ありません。善の心で人と接する事で賄えると思うからです。

 


みなさんは如何お考えですか。